#20. 栄枝 直子さん(オクラホマ大学気象学部アシスタント・プロフェッサー)

気象学者としてオクラホマ大学で教鞭をとりながら「英語は苦手」と言う栄枝 直子さんに、タイの日本人学校からインターナショナルスクールへ転校した頃の英語学習、アメリカの大学院で「英語の問題じゃない」と気づいたことなどについてうかがいました。

栄枝 直子 Naoko Sakaeda

オクラホマ大学気象学部アシスタント・プロフェッサー。香港で生まれ、タイとインドネシアで育つ。中学校の途中まで現地の日本人学校に通った後、インターナショナルスクールに転校。高校卒業後に単身渡米し、ワシントン大学シアトル校で学士号、ニューヨーク州立大学アルバニー校で気象学博士号を取得。コロラド州ボルダーにあるNOAAの研究所で博士研究員としての2年間を経て、現在に至る。

熱帯域の気象・気候、そしてそれらが全球に与える影響などが主な研究対象。日本に帰国する機会は見つけられずにいる。英語はいつまでたっても苦手意識がなくならないが、なんとかなる精神で日々を乗り越え中。

プロフィール University of Oklahoma, School of Meteorology

Emi
自己紹介からお願いできますか?

Naoko
米国オクラホマ大学の気象学部でアシスタント・プロフェッサーをしています。両親は日本人なんですが、東南アジアで生まれ育って、日本人学校とインターナショナルスクールに通い、高校卒業後にアメリカへ来て、気象学の学士号と博士号を取りました。

Emi
オクラホマ大学のアシスタント・プロフェッサー。生まれも育ちも東南アジアということですが…

Naoko
生まれは香港で、その後タイのバンコクと、インドネシアのジャカルタに住んでいました。いちばん長く住んでいたのはタイです。途中で一度、1年間、日本の小学校に通ったことがあります。その後はまたタイに戻って、タイで高校を卒業しました。

 

英語を使う機会はまったくなかった

 

Emi
香港で生まれて、タイ、インドネシア、日本、再びタイ、その後アメリカへ。アジアにいる間にも英語を使って教育を受けていた?

Naoko
いや、小学校と中学校の途中まではずっと日本人学校に通っていたので、英語を使うことはまったくありませんでした。日本の学校と一緒で、「英語や英会話の授業が週に何回かある」というぐらいだったと思います。

英語の勉強を始めたのは、インターナショナルスクールに行くことが決まってからです。日本人学校には高校(高等部)がなかったので、タイで親元に残って高校に行くとなると、進学先はインターナショナルスクールしかない。その時点で私ひとりだけ日本に帰るという選択肢もあったのですが、親元に残ることにしたんです。

Emi
英語と出会ったのは、バンコクの日本人学校?

Naoko
たぶんいちばん最初は幼稚園のときです。4~5人の友達で集まって、どこの国だかわからないんですけれど、外国人の先生に来ていただいていたことがあります。本当にお遊びみたいな感じで、「英語を学ぼう」みたいなのをやっていた記憶がうっすらとあります。

Emi
幼稚園の頃、タイで外国人に英語を習っていた。先生は英語ネイティブだった?

Naoko
それも明らかじゃないです(笑)。本当にわからない。英語教室というか、英語で遊ぶという感じだったと思います。

Emi
それ以外は、日本人学校で習う英語科の授業のみ?

Naoko
「インターナショナルスクールに行く」と決めてからは、入学試験に向けて英語の勉強を始めました。決して厳しいものではないんですけれど、いちおう学校に入って最低限の勉強ができるかどうかをチェックするための試験があったんです。そのために家庭教師の方に来ていただいていました。

Emi
日本人学校は日本の学校と同じカリキュラム。ご両親は日本人。家の中ではずっと日本語を使っていた?

Naoko
はい、日本語のみです。あとは現地の言葉を少し。東南アジアでは、家にお手伝いさんがいることが多いので、その人との会話は現地のタイ語を使っていました。会話というほどでもないですけどね。「お水ください」とか(笑)。

Emi
お手伝いの方と話すタイ語は、どうやって学んだ?

Naoko
え、記憶にないです。母に教えてもらったのか…。どうやって学んだんでしょうね。全然わかんないです(笑)。あ、小学校に入ってからはタイ語の授業がありました。お手伝いさんが一方的にタイ語で話しかけてくるので、自然と何かしらつかんで覚えたんじゃないでしょうか。文章を作るほどではなかったです。

Emi
家にタイ語のネイティブスピーカーがいて、その人に頼まなければいけないこと、ニーズがあるので、なんとなくコミュニケーションしているうちに、その程度のタイ語はできるようになった。

日本人学校でのタイ語の授業で、何か覚えていることは?

Naoko
英語の授業と同じような感じだったと思います。タイ人の先生がいらして、「自己紹介の仕方」とか、「これいくらですか」とか(笑)。日常で使うことに重点を置いていた気がしますね。あんまり真面目に授業を受けていなかったので、覚えてないんですよ(笑)。

 

「日本語さえできればいい」と思っていました。

 

Emi
日本人学校では、タイ語、英語、日本語(国語)の授業があった。言語系の授業は好きだった?

Naoko
好きでも嫌いでもなかった…。あ、でも漢字は嫌いというか、「面倒くさい」と思っていました。タイ語も英語も、「それを使って将来仕事をする」など、しっかりしたビジョンがなかったので、とりあえず普通に授業を受けているだけでした。

Emi
学校の科目だから、時間が来たらその授業を受ける。特に感想はない?

Naoko
そうですね。好きな教科も嫌いな教科もなかった気がします。教科がどうというわけではなく、「担当の先生が嫌いだから、授業を嫌いになる」ということはありましたけど(笑)。たぶん小学校の時は、何が得意で何が苦手、何が好きで何が嫌いというのがなかったですね。

Emi
語学系の授業だけでなく、全体的にどの教科も好きでも嫌いでもなかった。タイ語も英語も、「将来、使っていく」とは思っておらず、「日本語が使えればいいかな」と?

Naoko
そうですね。本当にギリギリまで、インターナショナルスクールに行く覚悟もありませんでした。タイにはいろんなインターナショナルスクールがあったんですが、一部、サマースクールをやっている学校がありました。高校への進学を考えている時期だったので、両親が「行ってみたらどうだ」みたいな感じで勧めてくれました。

サマースクールに参加して、「ああ、インターナショナルスクールでやっていくには、ちゃんと英語を勉強しなきゃいけないんだな」と感じた気がします。それまでは全然考えていなくて、「日本語さえできればいい」と思っていました。

Emi
外国に住んで、外国人が周りにいて、周りにタイ語などのネイティブがいる環境。インドネシアでもたぶんそうだったでしょう。でも、特に外国や外国語に惹かれることはなく、「日本人だから、日本語でやっていくんだろうな」と思っていた。

「小学校の時に1年間、日本に住んだことがある」ということですが、小学生になって初めて日本に住み、学校に行くという経験はどうだった?

Naoko
ものすごいカルチャーショックでした(笑)。日本へは、生まれた時からずっと年に何回か帰っていたので、行ったことがないわけではなかったのですが、「日本は、学校が休みの期間に遊びに行くところ」「おじいちゃんおばあちゃんが住んでいるところ」と思っていました。遊びに行くのではなく、実際にそこに住んで1年間小学校に通うとなった時、「自分はいろいろ違うんだな」ということに初めて気づきました。

ちょうどインドネシアが治安の悪い時期だったので、一旦避難するという形でした。私が通ったのは、広島県の田舎の公立小学校。それまで学校には、外国から転入生が来るということがなかったんです。通学をはじめる前に校長先生に会いに行ったんですが、まず「日本語できますか?」と聞かれたことにびっくりしました。「いや、日本語しかできないし」と思って(笑)。

Emi
(笑)

Naoko
短期間しか日本にいないということは最初からわかっていて、学校に通うのも短期間。ランドセルも持ったことがなかったですし、最初は制服もない。「私服でいい」と免除してもらっていたので、学校では「すごく違う子が入ってきた」というリアクションでした。和式トイレの使い方も「どうやって使うの?」という感じ。給食も、すごいカルチャーショックでした。でも入ってからみんなと馴染むのは早かったですね。まだ小さかったので、すぐ方言で話すようにもなりましたし。

Emi
何年生だった?

Naoko
小学校5年生かな。

Emi
5年生? そんなに小さくはないですよね?

Naoko
んー…そうか。でも、だいたい小学校のクラスには、一人でいる子の面倒を見てくれる正義感の強い子がいますよね。そういう子に助けてもらっていました。それから通学グループがあったので、近所の子と仲良くなれて、そこから馴染んでいきましたね。すごく小さい小学校で、一学年1クラスしかなかったんです。だからそんなに浮くことはなかったと思いますね。たぶん浮いていても気づかないタイプなのでわからないですけど、自分では「うまく馴染めていけた」という感覚です(笑)。

Emi
(笑)受け入れた側の同級生からすると、「わ、外国からすごく違う子が来たな」「助けてあげなきゃ」などいろんなことがあったかもしれない。でも、直子さんとしては「わりと早くみんなと馴染んで、広島の方言も話せるようになって、 みんなと同じように生活できた」という印象?

Naoko
そう、本人的には。本当のところはわからないです(笑)。

 

インターナショナルスクールに行くなら、英語をやらなくちゃ

 

Emi
日本での滞在は楽しく終わって、またタイに戻った?

Naoko
そうです。インドネシアから避難している間に父の転勤が決まったので、家族でタイに戻りました。

Emi
タイではまた日本人学校に?

Naoko
中学校の途中まで、日本人学校に行きました。インターでは高校が9年生(日本の中学3年生)からなのですが、 「いきなり高校に入るのは、ちょっと大変なんじゃないか」ということで、ミドルスクールの最終学年である8年生(日本の中学校2年生)から入ることになりました。日本の学校は春から始まるのに対して、インターは夏から。その関係で、中学2年生の夏に日本人学校からインターへ転校しました。

Emi
中学生で、「インターナショナルスクールに行くなら、英語をやらなくちゃいけない」となってから、どんな勉強を?

Naoko
まずは家庭教師に来てもらいました。たぶんロシアの方だったと思います。「彼女が自分なりにどうやって英語を勉強したか」をもとに教えてもらっていた気がします。たとえば、「文法を一つひとつ覚えるよりも、フレーズを覚えろ」というような。それが週に1回、1時間ぐらい。あとは、「簡単な日本語の童話の本を、自分で英語に訳す」というのをやっていました。それは父の勧めです。父も海外で勤務するにあたり独自に英語を勉強した経験があるので、父なりの方法を私に勧めてくれたんだと思います。

Emi
家庭教師は主に会話の練習をするため?

Naoko
そうですね。いちおう教科書があったので、そこに載っているトピック ― たとえば「過去形を学ぶ」だったら、過去形のフレーズを使って練習するとか、そんな感じだったと思います。

Emi
先生はロシア語母語話者。自分も英語を学んだ経験があるから、そのやり方を伝授してくれた。

Naoko
本当にロシア人だったかあやふやですが、英語のネイティブではなかったと思います。

Emi
家庭教師のレッスンはどうだった?

Naoko
イヤではなかった(笑)。

Emi
(笑)やっぱりそこも淡々としてますね。

Naoko
イヤではなかったし、「自分がちょっとずつ学んでいるんだな」という感覚はあったと思います。

Emi
たとえば教えてもらった英語のフレーズを、生活の中で使う機会はあった?

Naoko
うーん。ないと思います。

Emi
日本に住んでいる日本人と似たような状況?

Naoko
そうですね。インターに入る前だったので、日常的に英語を使うことはなかったと思います。もしかしたら同時期にサマースクールに通っていて、だとすると、そこでの授業は英語でした。第二言語話者のためのサマースクールだったので、それと時期的に重なっていれば、日常的に英語を聞いたり話したりする機会があったかもしれないです。

Emi
ロシア語母語話者に英語を教わりつつ、日本語母語話者であるお父様が英語を習得した方法として、「日本語で書かれた童話を英語に訳す」ということをやっていた。

Naoko
その訳が正しかったか間違っていたか、誰もチェックしてないですけど(笑)。

Emi
(笑)まぁそうやって辞書を引いたり、訳したりする作業から覚えられることもあるというアドバイスがあった。その他には、入学前のサマースクールで他のノンネイティブの人たちと一緒に、日常生活の中で英語を使う機会があった。

 

「ずっと英語がわからないまま」のわけがない

 

Emi
日本人学校の英語の先生はどこの国の人?

Naoko
たしか、「英語」と「英会話」の2つの授業がありました。「英語」は日本人の先生で、「英会話」は…どこの人かわからないんですけれど(笑)外国人の先生でした。たぶん当時は、とりあえず見た目が英語圏の人っぽかったら「アメリカ人か、イギリス人だろう」と思っていたんですけれど、いま振り返ると絶対そうではない。だから、どこの人なのかがわからないんです。

Emi
中学生でインターナショナルスクールに初めて入ったときの印象は?

Naoko
最初のサマースクールは、本当に何が行われているのかまったくわかりませんでした。最初の授業で先生に何か聞かれたんですが、まったくわからなくて。クラスには他に日本人の先輩がいたので、その方に後で聞いたら、「『名前は?』って聞かれてたんだよ」と。「おぉ、そんなこともわからなかったのか、私!」となりました(笑)。そういう年上の先輩や同じ環境の子がいたので、学校に行くのが辛いということはなかったですけど、毎日、家に帰るととにかく疲れていました。

Emi
インターナショナルスクールに入学した頃は、名前を聞かれてもわからないぐらい、本当に英語がわからなかった。

Naoko
それまで、ネイティブの英語を聞く機会はほぼなかったですから。英語の環境に急に入って、最初は本当にわからなかったです。

その後、インターナショナルスクールの授業が実際に始まってからは英語で勉強しなくちゃいけなくなりました。ESL*の授業や、ESL生のための放課後のサポートなど、いろんな形で助けてくれるシステムは整っていたんですが、とにかく数学にしても、たとえば文章問題で何を聞かれているかわからない。だから本当は数学ができていても、できない部類に入ってしまう。そういうところで、いろいろと悔しい思いはありましたね。
*English as a Second Language:英語が母語でない人向けのクラス

Emi
「あぁ、名前を聞かれたこともわからなかったんだ」という場面で、人によってはすごくショックを受けたり、「もう英語は無理」と挫折したりすることもある。直子さんはその時、どう考えていた?

Naoko
ある程度のショックはあったかもしれませんが、サマースクールの間はクラス全員、英語が母語でない子たちだったので、そんなに落ち込むことはなかったです。「まあ、しょうがないな」「そのうちできるようになるのかな」ぐらいだったと思います。

Emi
「今は入ったばっかりだからわからないけれど、だんだんわかるようになるだろうな」という感じで、あんまり深刻に考えていなかった?

Naoko
そうですね。「先輩も、たぶんみんな最初はそうだったんだろうから」と思っていました。いま考えると、他人を通して1年先の自分を見ていましたね。「1年前に入った人たちがここまでわかるようになっているんだから、自分もそのうちできるようになるんじゃないかな」と。

Emi
他の日本人が自分より流暢に、自由に英語を使っている姿を見て、「あの人と比べて、自分はできない」と考えるのではなく、「あの人たちと同じぐらいの期間この学校にいたら、私もああなるんだな」と考えていた。

Naoko
その時点では「自分の方ができていない」という意識はあったと思います。でもたぶん、「こんなに英語漬けにされるのに、一生このままのわけがないだろう」と勝手に思っていました(笑)。

Emi
わりと楽観的に、「そのうちできるようになるでしょ」と。あまり気にしていなかった?

Naoko
ある程度は気にしていたと思います。でも、「だから学校を辞める」という選択肢がなかったんです。「もし辞めたら中卒。中学校も途中だったから、小卒かぁ」みたいな(笑)。

Emi
(笑)多少英語がわからなくても、学校に行くしかないんだからしょうがない。

正規の授業が始まってからは、ノンネイティブ向けのサポートを受けつつも、授業自体は英語だけでどんどん進んでいく。しかも、たとえば小学校からインターに通っている人たちの中に入っていったわけですよね?

Naoko
同じ時期に入った子など、お互いに理解し合える人が周りにたくさんいたので、「なんで自分だけできないんだろう…」という感じではなかったですね。それに、英語に疲れたら、友達と日本語で話し合える。その点はすごく気が楽だったと思います。

Emi
同じ境遇の友達と経験を共有していた。慣れない英語を一日中聞き続けるのはすごく疲れますからね。息抜きに日本語を話すこともできた。

よく「日本人は数学が得意だから」「数学は大丈夫」と言いますが、「問題の内容がわからなくて、解くに至らない悔しさがあった」というお話でしたね。

Naoko
表記方法もちょっと違ったと思います。たとえば掛け算は、日本では☓のマークで教わるけれど、アメリカではドット(・)を使う。最初はこのドットが何かわかりませんでした。問題がわからないから、数字だけ並べられても何をしたらいいのか意味不明。「変な小数点だなぁ」と思っていました(笑)。

Emi
(笑)やはりここでも、気にしたり、ショックだったりということはあっても、それ以上に「まあ別にいっか」というような器の大きさを感じますね。

Naoko
いや、ある程度悔しい気持ちはあったと思いますが、その時点ではどうしようもないので(笑)。それに自分一人だけじゃなかったというのも大きいです。

Emi
「どうしようもないことをウジウジ考えない」ということが強みかもしれませんね。

 

ESLやクラスメートたちのサポート

 

Emi
実際、中学の後半から高校にかけてインターナショナルスクールにいるうちに、英語はだんだん何とかなっていった?

Naoko
だんだん何とかなっていきました。 学校では一日中英語漬けなので、家に帰ってから英語を勉強することはありませんでした。その日に授業で与えられた課題をこなすということが、自動的に英語の勉強になっていたんだと思います。 また、「ESLを卒業しないと、自分の好きな他の選択科目が取れない」という意識もありました。ある程度できるようになった頃、「次の学期から ESLはナシね」と言われて、その時に「あぁ、私、もうESLがなくてもいいんだ」と思った記憶があります。

Emi
それは高校の何年生?

Naoko
ESLを抜けたのは、9年生か10年生ぐらいの時だったと思います。

Emi
インターナショナルスクールに入って約2年で、「ESLは取らなくていい」と言われた。それで、「自分は英語ができるようになっているんだな」と感じた。

Naoko
まぁ、抜けたのは私だけではないので、「それが自然な過程かな」と思っていました。みんな徐々に抜けて行ったので、「そのうち自分も抜けるものだ」と(笑)。

Emi
入学した頃は、自分の名前を聞かれていることもわからないぐらい、英語がわからない状態。それが2年後には、英語のサポートがなくても他の子と同じように授業が受けられるところまで成長していた。

Naoko
ある程度は、です。たぶん授業の理解度としては、1から10まで全部わかっていたわけではありません。「まぁESLに選択科目を取られなくてもいいよ」ということだったと思います。

Emi
ESLの授業や、ESL生向けのサポートについて、何か具体的に覚えていることは?

Naoko
放課後のサポートは、普段の宿題の中でわからないところをいつでも聞けるというものでした。選択科目としてのESLは、先生がトピックを決めて授業をしていたような気がします。実際に何をしていたかは全然覚えていません。

Emi
ライティングのトレーニングは? 書いたものを添削されたり?

Naoko
あぁ、何か書かされていた記憶はありますね。ノートに書かされて、見せなきゃいけなかった。添削も…あったかもしれないですね(笑)。印象は全然ないです。

Emi
「これが困った」「できなくてショックだった」ということも、特にない?

Naoko
他の授業ではありました。たとえばグループで課題をするとき何もわからないから、私はものすごく足手まとい。でもクラスには複数の言語を話せる子がたくさんいたので、みんな優しかった気がします。「この子は英語がわからないから、しょうがない」という感じで。

たとえば「ハサミ取って」と言われても、何を言われているかわからない。あとで他の子が取りに行ってから、「あ、『ハサミ取って』と言われていたんだ!」と気づく。でも、イヤな気持ちになったことは全然なかったですね。

Emi
「授業や生活の中で、他の人が言っていることがわからない」という場面はあったけれど、そのこと自体が特に大きな問題になることはなかった。助けてくれる人がいるし、「あぁ、そういうことだったんだ。ごめんごめん」という感じ。周りにいる人たちも英語以外の言語を学んだ経験があるので、お互いに言わなくても気持ちがわかりあえたのかも?

Naoko
たぶん皆がみんなではなかったですけれど、「英語ができない子がいてもしょうがない」。それが当たり前の学校だったので、サポートしてもらえたんだと思います。

Emi
まさにインターナショナルな場ですね。

 

アメリカで、「まだ私は英語ができていないんだな」

 

Emi
タイのインターナショナルスクールを卒業して、アメリカの大学に入ってからはどうだった?

Naoko
アメリカに行って、「まだ私は英語ができていないんだな」と思いました。

Emi
インターナショナルスクールを卒業しても、「自分は英語ができている」という感覚はなかった?

Naoko
ないです。今でもないです。自分の中で、「英語ができる」と感じたことは、今まで一度もありません。

インターナショナルスクールでは、授業で課題をこなすことはある程度できるようになったんですけれど、やっぱり友達は日本人が多かったんです。だから、たとえば日常会話の中で「こんな面白い話があったんだよ」というようなことも、英語だとうまく言えない。それは、アメリカの大学で4年間を終えても、「うまくできないな」と感じていました。

Emi
授業の課題をこなすための英語はできるようになったけれど、友達との日常会話では、「自分の英語は不十分だな」と感じていた?

Naoko
やっぱりテンポが速くて。授業は自分のペースで聞いて、課題をこなせばいいですけれど、友達同士、特に若者同士の会話となるとスラング(隠語、学生言葉)なども入ってくる。ボキャブラリーがないせいもあって、「うまくしゃべれない」と思っていました。今でもそう思っています。

Emi
大学1年生なら10代の子たちがいる場。しかも、彼らには外国語の経験がないかもしれない。英語が話せない人の気持ちが理解できなかったのかも?

Naoko
それはあるかもしれないし、そのへんは気にしてなかったのかもしれません。

Emi
話すテンポが速かったり、スラングや仲間内の言葉が使われていたりして、わからないことがあった。ネイティブたちが話している輪の中で、「ついていけない」となったとき、どうしていた?

Naoko
…どうもしてなかった(笑)。

Emi
(笑)

Naoko
当時はゴリゴリのネイティブとあんまり友達ではなかったです。日系アメリカ人や日本語ができる子、日本に興味がある外国人の学生などと仲良くしていました。大学には日本人学生会があったので、そこを通じて友達をつくることがほとんど。だから、アメリカの大学に行ってもまだ日常的に日本語で会話することがありました。

対応は、場面にもよりますね。一対一の会話でわからなかったら、「わからない」と言わなきゃいけない。でも、グループの会話で他の人たちが盛り上がっていたら、もし私がわからなくてもどうしようもない。グループの会話を止めるほどのことでもないので、わかんなかったら、「わかんなかったな」で終わり(笑)。

Emi
「他の人たちがわかりあっていて、私だけがわからないのは、まあ別にいっか」と割り切っていた。「みんなが笑っている中に、自分も入ってやるぞ!」という人もいますけど?

Naoko
私はそんなに意欲がなかったので(笑)、学部生のときは、文化の近い友達との交流が多かったです。

 

大学院で、「英語の問題じゃない」と気づく

 

Emi
アジアから来た留学生など、文化背景が似ている人たちと仲良くしていて、「ネイティブだけの会話に入っていこう」という意欲はなかった。それは大学院に入ってからも同じだった?

Naoko
大学院には文化の近い人、日本語を話す相手がほとんどいませんでした。「私の英語がいちばん成長したのはどこかな」と考えると、たぶん大学院のときだと思います。周りの友達はほとんど全員、英語のネイティブ。自分が英語で会話をしなきゃいけない場面が多かったので、そこで会話力がすごく伸びたと思います。でも、「英語力というより、コミュニケーション能力を教えてもらった」という気もします。

タイからアメリカに移って大学に入ったのは、シアトル。一方、大学院はニューヨーク州のアルバニーという田舎に行きました。シアトルはアジア人がすごく多くて、日本人の留学生もたくさんいたんですけれど、アルバニーにはあんまりいなかったんです。

Emi
アメリカ大陸の西から東へ、都会から小さな街へ、大学から大学院へ。いろんな変化が重なった。大学院では日本語がわかる人が周りにいない、英語で会話せざるを得ない環境。そこで会話の力が伸びた。

「英語力というより、コミュニケーションを教わった」というのは、どんなこと?

Naoko
まず自分で、あることに気づきました。ずっと私は「英語ができない、英語ができない」と思っていたんですけれど、「いや、ちょっと待てよ。私、日本語でもうまく説明できないんじゃないか」と。同じことを日本語でもしゃべれない。「私はもともとコミュニケーションが苦手なんだ。これは英語だけの問題じゃないんだ」と気づいたんです。

それから、「わからない」という場合も、自分の英語のせいではなく、文化的背景や政治家の名前など、周りの人が盛り上がっている話のコンテンツ(内容)がわからないことが多い。それは決して私が英語ができないからではなくて、知識がないから会話が理解できないんです。その点を以前よりオープンにするようにしました。会話の中で、「それ何?」「いま言った人、なんて名前?」などが自然に聞けるようになり、グループの会話に少しずつ入れるようになっていきました。特に大学院生って、説明したがりの人が多い(笑)。だから、「え、いまの何?」と聞くと、みんな嬉々として答えてくれるんです。

「これは英語だけではない。コミュニケーション能力も問題の一つなんだな」と気づいたきっかけとして、研究のプレゼンもありました。プレゼンを理解してもらうためには、英語以外にもいろいろな要素が関わってきます。英語だけできても、理解してもらえないことがある。どうやったら相手にわかりやすく説明できるかを考えなきゃいけない。そういう機会もあって、気づきにつながったんだと思います。

Emi
日本語を使わない環境、英語だけで生活する中で、「自分の言ってることが伝わらない」「相手の言ってることがわからない」ということがあったとき、それをどう解釈していたかという話ですね。

1つめは、「これは英語のせいじゃない」「日本語でもうまく話せないなら、英語で話せないのは当たり前」と考えた。2つめは、「言語の問題ではなく、話す内容、それにまつわる知識がないから話に入れない」。また、学部生のうちは「私はわからないけど、まあいいや」と聞き流していたけれど、「それ何?」と聞くようにした。聞いてみると、相手は意外と喜んで説明してくれる。そうすることで情報が共有できて、話にもついていけるようになった。

Naoko
あと、“外国人感”をもっとさらけ出すようにしました。

Emi
どういうこと?

Naoko
「私は文化も違うし、英語はネイティブじゃないから、『いまの何?』と聞くんだよ」ということです。 自分の文化について普通に話しあえる環境だったので、周りのみんなも、「直子は外国から来て、英語が第一言語じゃない。直子にはこれがわからないんじゃないか」という内容が現れたときに、私の顔を見てくれたり、「今のは、アメリカで言うとね…」と、自然に説明してくれたりするようになりました。

Emi
会話の中で自分から「それ何?」「教えてほしい」と発信することによって、だんだん周りの人が「あ、これはひょっとして文化が違うとわからないんじゃないか」と先回りしてくれるようになってきた。これは日本人がたくさんいるような環境では起きにくいことですね。

また、「ここがわからないんだな」「こういうとき、追加の情報が必要なんだな」という、わからない側の経験を裏返すことが、たとえば学会発表で「どうしたら相手に伝わりやすいか」「理解してもらえるか」と考えるときに役立った。

Naoko
たとえば発表で何か理解してもらえなかったら、「私のアクセントが悪いからだ」だけじゃなくて、「きっと何か補足説明が足りなかったんだ」「グラフが何を示しているかちゃんと説明しなかったからか」と考える。聞き手としても、たとえばものすごく有名な科学者の説明が理解できなかったら、「自分はバカなんだ」というだけじゃなく、「この発表者はちゃんとみんなにわかるように説明しなかった」「皆がこれを知っているものとして次の段階に移ったから、理解できなかったんだ」と。英語だけではなく、コミュニケーションのことをちょっと考えられるようになったかなと思います。

Emi
なんでも英語のせいにされちゃうんでね(笑)。

Naoko
でも、私もそれに気づくまでに、10年ぐらいかかってますから。長い道のりですね(笑)。

Emi
(笑)インターナショナルスクールに入って、アメリカの大学を経て、大学院で…

Naoko
それもたぶん終わり頃ですよ。大学院が終わる頃、やっとそういうことに気づきはじめました。

Emi
「これは英語だけの問題じゃないんだな」「情報を詳しく説明したり、グラフなどビジュアルで見せたりすることでカバーできるんだな」と。それに気づくまで、長い時間がかかる。

Naoko
かかりますね(笑)。いまだに、「教授として、どうやって学生に説明したらいいか」と考えて、毎回気づくことがあります。「まだまだちゃんと説明できないんだな」という気持ちになりますね。

Emi
それは直子さんの謙虚さでもありますよね。

 

研究機関は「快適すぎて、危険」

 

Emi
大学院を終えて博士号を取得。その後、オクラホマへ?

Naoko
博士号を取った後は、コロラド州ボルダーで2年間、日本の気象庁にあたる機関*のラボ(研究所)でポスドク(博士研究員)をやっていました。
*National Oceanic and Atmospheric Administration(NOAA:アメリカ海洋大気庁)

Emi
博士研究員として、アメリカの公的機関で働いた。大学院とはどう違った?

Naoko
研究するには素晴らしい環境だったのですが、「研究のコミュニケーションがものすごく楽」ということに不満を覚えました。研究所の人たちはほとんどが博士号を持っている人たち。たとえば一般の人に自分の研究を説明する場合は0(ゼロ)から始めなければいけませんが、そこにいる人たちはみんなレベルが同じなので、9から始めても会話が成り立つんです。

Emi
研究者が集まる研究機関では、門外の人を相手に話す場合のように丁寧に説明する必要がない。いきなり本題に入っても通じ合える。それは話が早くて便利なのでは?

Naoko
なんか「自分の理解が深められない環境に来てしまったんじゃないか」と感じました。まあ、それとは別に政治的な変わり目もあって、「外国人として長くいられる場所ではないな」と思ったのが、移動するきっかけになりました。

Emi
研究所で、いわばツーカーで話が通じる人たちとのコミュニケーションが、さほど快適ではなかった?

Naoko
いや、「快適すぎて危険だな」と思いました。

Emi
「言わなくても通じてしまう環境にずっといるのはよくないな」と?

Naoko
そうです。基礎的なことは飛ばせるから、始点に戻って物事を深く考えなくても良くなる。そのことにちょっと違和感を覚えたんです。研究面では、とにかく自分の研究だけをしていればいい環境だったので、ものすごくいい経験ができました。でも、研究というのは自分が何を社会に貢献しているのか、すごくわかりにくい。特に私の分野はわかりにくい。だから研究以外のこともしておかないと、そのうち頭がおかしくなるんじゃないかと思って(笑)。

 

大学教授としての、新たな挑戦

 

Emi
ご専門はどんな研究?

Naoko
ざっくり言うと、熱帯域の雲、気象・気候の現象が研究対象です。それが全球にどういう影響を与えるか。たとえば高緯度の天気予報の質を上げるとしても、それが熱帯域とどう関連するか。気象学の中では、経済的に成長を遂げた国が多い緯度に比べて、熱帯域はまだ解明されていない分野が多いんです。自分がその地域で育ったということもあって、それを主な研究対象にしています。

Emi
ご自身が育ったエリアを含む熱帯の気候を研究して、その特性を伝えるというような仕事。研究機関での研究生活の後、大学で教えるという職業を選び、オクラホマに来てからはどうだった?

Naoko
英語について、自分の中で何かが変わったということはありません。英語ができなくても、とにかく学生に教えなきゃいけなくなっちゃったので、たとえばホワイトボードに完璧な文章が書けなくても、「まあいいや」という姿勢でやっています。私は英語や文学の先生ではなく、気象学という分野を教える立場。「完璧な英語で教えられなくても、学生とコミュニケーションが取れればいいや」と思っています。

Emi
学生の反応はどうですか?

Naoko
今のところ教えたのは、学生生活に慣れた学部4年生と大学院生。大学には外国人の先生が普通にたくさんいて、私が特別というわけではありませんから、特に反応はないです。もし何か私が言ったことがわからなかったら、学生は「今の、もう一度言ってください」と言ってきます。私はそれがイヤではないし、学生もそれが自然に言える。みんな大人の学生なので、問題はないと思っています。

Emi
大学で3年以上の経験がある学生たち。大学院生であれば社会経験のある人も含まれている。英語についてもコミュニケーションについても特に困ったことはなく、何か問題があれば聞き返して解消して、おしまい。

Naoko
ただ、来学期は1年生を受け持つので、それはまた新たなチャレンジを生み出すと思います。気象学に興味のある大学1年生が、いちばん最初にとる授業。しかも80~100人のクラスなんですよ。

Emi
学部生の最初の授業は、受講生の数も多いですし、ティーンエイジャーもいますね。来学期以降はまた新しい経験ができそう。楽しみですね。

Naoko
楽しみですね。これはもう、英語の問題ではないと思います(笑)。

Emi
そのあたり、一貫していますね。インターナショナルスクールに入ったときは、「英語の問題ではなく、まだ経験した時間が少ないからだ」。アメリカに渡ってからも、「英語の問題ではなく、背景となる知識の問題なんだ」「日本語でもできないことは、英語でできなくても当たり前じゃないか」。そういう切り替え、割り切り方は、ぜひ多くの学習者に参考にしてもらいたいところです。

本日はありがとうございました。

Naoko
ありがとうございました。

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